Paris
Elliott Erwitt, 1949
娘へ。
旅先きでふと町の映画館にはいるのは、とてものんきな気がして好きなのだが、なかなかそんな余裕のある旅行もできない。どこかへ出かけて、たまたま少し暇があってその土地の友人たちと町を歩くことがある。すると私はその知らない町の映画館へとてもはいってみたい欲求を感じ出す。どんな映画でもいいのだ。東京では決して見ないようなものでもいい。
佐多稲子「よその町の映画館」『ひとり歩き』三月書房
東京の人びとが戦後はじめて見た中華料理の一つに、ギョウザがある。これは、中国といっても北方のものだが、中国から復員してきた男たちや、中国東北部へ耕地を求めてでかけていった開拓団の人たちが覚えてきたものである。もちろん、本場の中国人が経営するギョウザ屋もあったが、ギョウザの味が日本に伝えられたのは、時期はやや後になるが、やはりヤミ市をもってはじめとする。当時のギョウザにちゃんと豚肉が入っていた保証はないが、それでもこれは、戦後日本にもたらされた料理の傑作の一つであった。
外からは車は小さく見える。身をかがめて中に乗り込むとき、われわれは時おり閉所恐怖症に襲われるが、いったん中に入ってしまうと、車は突然大きくなり、快適に感じられる。だがこの快適さと引き換えに、「内部」と「外部」の連続性がいっさい失われる。車の中にいる人にとって、外の現実は、ガラスが物質化しているバリアーあるいはスクリーンの向こう側にあるものとして、かすかに遠く感じられる。われわれは外的現実、つまり車の外の世界を、「もう一つの現実」として、つまり、車の中の中の現実とは直接的に連続していない、現実のもう一つの様相として、知覚する。